
とあるドラマを観てぼんやりと考えていた。
自分は社会でこれが正しいとされるようなテンプレート的な生き方をしたことがなく、その分あれやこれやと言われ続けてきた。結果、無難にやり過ごすためには何も話さない返さない方がいいと思ってはきたし、別に一人や二人にそう思われたところで社会は様々な人がいるので費やす時間が変わらないなら心地よい方がいいとも思ってきた。
だから、普遍的な正しさとは別に、社会や常識もぶら下げた相手から「あなたはこういう人ですよね」といったニュアンスのことを投げられると、その相手にじゃない。こちらも生い立ちや環境や過去の積み重ねから「そう言うあなたはどうなのか」という勢いで度を超えて詰めることが時折ある。そう、自分から見えているのは相手だけじゃない。互いに「関係ない凶器」を使って斬りつける。
勿論、主人公のように説明しないまま消えるということは自分にはないけれど、説明すらしたくない人がいるのも事実。そして人に迷惑をかけたり傷つけたりをしていないと自負していたとしても、それとは別で、さも「これが正しいでしょう」と言われると「いやいや、あんたに言われたくないけどね」といった姿勢になってしまうのだよな。
地雷を踏まないような配慮だとか、地雷を踏んでくる常識だとか、結局そこに「相手が一個人」という感覚はない。それは空気で抑えつけられた自分の反応にも似ている。そりゃあそうなるのだよな、相手が一個人として話してこないから、自分も一個人の枠を出てスケールの大きな流れにはなるわけで、だから分かり合えることはない。
家人とも話をするときは「言葉の被せあい」をしないようにしている。相手のターンで話を聞いて、それに対して自分が答える。そして自分のターンで話をして、それに対して相手が答える。感情で被せあいをするとろくなことにならないと互いに認識しているから。
「自分は」こう思っているというならば分かるし、価値観のすり合わせができるけどさ。まあなかなかそうもいかないのが現実ではありますな。